貧しい生活だったな。田舎たったからなんとか3度の食事にはありつけた。芋、水とん、豆かす(油を搾ったあとのかす)も食べていた。そのうち穀類が配給で、麦ご飯や時々米も入ったりしてきた。アルミニウムの弁当箱の中には梅干だけのことも。みんなの弁当箱の蓋は梅の酸で穴が開いていた。わたしの食べこぼした米を摘まんで口に運んだKのことがずっと忘れられない。Kはすでにいない。
履き物は、わら草履で学校に行くのだが、2年上の兄が作ってくれた。小学3年生だった兄の作った草履はすぐにゆるんでズーと延びてばらばらになったりして、でも、すぐに巧く編めるようになってくれた。
そのうち、ゴム草履や、ゴム靴が配給されたが、くじ引きに当たらないと貰えないのだ。
南京袋地で作った学生服、ボタンは泥を固めて作った土ボタンだった。着物で通う子もいたと思う。
またいつか・・・・・