作家の米谷ふみ子さんが夕刊に”75歳以上の人はもっと戦争のことについて語れ”
という記事を書いていた。それ以下のひとたちは戦争の本当の恐ろしさを知らない
のだからと。政治家たちも官僚たちも戦争を知らない世代だから勇ましいことを云う
のだと。
そこで75歳の一人としての体験は・・・・・
母の在所のおじさんが出征する前の晩、親戚一同が集まって祝いの宴をもった。日
の丸の白地に寄せ書きをさせられたのが戦争の初めの記憶。
おじさんが帰郷の折、「大日本帝国」と書かれている海軍帽をかぶって写真館で撮っ
た記念写真がいまも古いアルバムにある。ちなみにそのアルバムには”アッツ島玉砕”
と書かれた新聞記事が貼ってあった。だれが貼ったのかなあ。おじさんたちは何人も
戦死。
親父は軍属でニューギニアからの帰りに船が撃沈し13時間海に浮かんでいて救助さ
れた体験をよく語ってくれた。機銃を受けたという傷を見せていた。
小学校1年生の時終戦に。とにかく食べるものがなく芋、芋の茎、カボチャの茎、田ん
ぼからイナゴをとってくるのがわたしの仕事で唯一の蛋白源。毎日真っ黒な芋パンを
食べるのが嫌で母を困らせていたようだ。こどもだから糖類が欲しく砂糖はないから
サッカリンやズルチンを水に溶かしては飲んでいた。甘かったな―。
借家の裏の竹やぶに防空壕を掘って空襲警報(役場のサイレンがうーうーと鳴る)と
防空頭巾をかぶせられ夜中の真っ暗な中を母に手をひかれ防空壕に入る。わたしは
4歳年下の弟の手を引いていた。怖かった。
田舎だから爆撃を受けた体験はない。B29という爆撃機が高度1万メートルを飛行雲
たなびかせゆうゆうと飛んでいた。もちろん高射砲は打つのかだ届かない。あれが敵機
だと教えられたが銀色に輝く敵機はきれいだった。
終戦の日の夜、電気をつけて夜を迎えることがとてもうれしかった。あの時の解放感と
いうか、もう怖くはないのだという安心感じがすごくうれしかった。
自分たちの住んでいるここが戦場になること。たくさんの人たちが戦争に駆り出され戦地
に連れて行かれひとを殺し自分が殺されること。一切拒否できないこと。秘密保護で国は
嘘ばかりついていたこと。それが戦争だということを。
そんなことを思い出しながら米谷さんの記事を読んでいました。