私の銀座 2
”よーしきょうの授業は銀座まで走るぞ!”と、体育の先生になった小生は意気
盛ん。大田区の志茂田中学に4年勤務しあらたに試験を受けなおして都立高校
のセンセになった。赴任先は京橋商業高校を選んだ。銀座が近いからではなく
もう一校は新島高校からの要請だったからです。悩んだ挙句の選択であった。
当時中学は全国大会が禁止されていて都大会が最高レベルの大会である。体
操部の顧問になって都大会で優勝し、さあ次は国体だ全国大会だと張り切って
高校への転出をはかった次第である。
1965年当時の銀座にはまだ路面電車「ちんちん電車」とも言っていましたが
それに乗って勝鬨橋を渡り月島3丁目下車、朝潮橋を渡ってそこが学校です。
赴任して初めに覗いたのはもちろん体育館です。そこでわたしは国体の選手を
育てるのが夢でしたから。春休みの体育館にはどこの部活も活動していません
でした。フロアーには埃が積もり空気の抜けたバレーボールが1ッ転がってい
ました。夢に見ていた高校の部活です。それが・・・・なぜか涙が滲み出てきました。
全国の商業高校はスポーツが盛んでしたからね。ところが定時制があるから活動
時間も5時までしかできません。また当時の商業高校は女子生徒が多く男子は進
学希望のものは普通高校へ行きますから少数です。体育館の施設も設備も予算も
まったく無きに等しい状態でした。都立ですからしょうがありませんがそれもあとで
知ったことでした。このようにしてわたしが思っていた夢はことごとく破ていくのでした。
大きな挫折感でしたね。銀座なんかは全く眼中になかったのですね。しかしこの京
橋商業高校ではわたしの教員生命と人生に大きな転機が訪れるのです。